ひと月ほど前、
J・Jという年下の友人から
手紙をもらった。
彼女の仕事について質問をした翌日の事だ。
「とっさの質問に答えられない方なので,手紙を書いています。
(特別養護老人ホームの感想が,ちゃんと伝えられなかった。
まちがった言葉の選択をしてしまったと思うの)
さて、特養にいる老人って、食べることと、寝ること、排泄すること以外のことが
ほとんどゼロに近い人がいて、そうやって人間がそぎ落とされてゆくと「生きる」っていう機能が
強調されて、ああ、人間も生きものなのだなぁ、と実感した記憶があります。
人間って生きものっていうカテゴリーから別わくで、考えられがちだけれども、生きものなのだなぁって。
それから、そういう人の排泄物って当たり前だけれども、おむつの上にされていて、
うんちがそこにあるっていうことにしょうげきを受けました。
人間の生活ではうんちは流されてなくなるからね。なかったものとして。
クウネルっていうおしゃれな雑誌があるけれどクウネルクソスルだろうが!と
つっこみを入れたくなったものです。ちょっとイラっとしながら。、、、、、、、、、、」
J・J、わたしは手紙をもらってから、
時々、「クウネルクソスル」と唱える様になったよ。
そして、考える。
人間、生まれてしばらくは,皆な、その状態でいるんだよね。
育っていくうちに、だんだんと
動詞が増えてくる。
「クウネルクソスル、アソブ、マナブ、、、、、、、、、、」
人生の終わりが近づくと、また、元に戻るのかね?
そんな、単純な話じゃないと思うけどさ。
「生きる」「生かされている」という能動、受動。
そぎ落ちていったのか、そぎ落とされてしまったのか。
とか、いろいろあるよね。
いつまでも、たくさん動詞を持ち続けていたいけど、
(この動詞の多様さが、(人間=生きもの)っていうカテゴリーから
はずされがちになるのかな)
動詞が減っていく宿命なのだったら、どうしたい?
わたしは
「クウネルクソスル、ハタラク」ってことを
許されるギリギリまで、持ち続けたいよ。
願わくば
コーヒーノートが存在し、
店主が焙煎をし、
わたしがちょぼちょぼ、店を手伝う。
そして、機を織る。
そうありたいよ。
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